「逝きし世の面影」を読んで

 日本の文化は、明治維新によってかなり大きな部分が破壊された。また、虚構も作り出された。例えば、天皇家は江戸時代までは仏式で葬儀を執り行っていたのを明治新政府が天皇を神格化して、統治に利用するために神道を前面に持ち出したのである。

 自分が日本人の文化だと思っている事が、たかが百年ちょっと前に意図的に作られたものだとしたら。もう一度、明治前の文化がどのようなものだったのか、知る必要があると考えていた。渡辺京二著「逝きし世の面影」平凡社ライブラリーは、明治になって失われた日本の文化を知る良い手掛かりになると思う。その手法は、江戸末期から明治初期にかけて日本を訪れた外国人達の記録を確認することである。「逝きし世の面影」の構成には関係なく、印象に残った部分から以下に紹介する。

【労働者】(「逝きし世の面影」に労働者という目次も項目もありません。)
 現在、日本の多くの職場にはISO9001(品質マネジメントシステム)が導入されている。各職場で作成しなければならない書類も多いし、こんな管理システムというものは、命令されたことしかしない、逆に言うと命令されたことも十分に果さない欧米の労働者を対象としたものであって、日本の職場には不適であるという印象を持っていた。詳しくいうと欧米の労働者は、言われたことしかしないから、なすべきことをマニュアル化し、実行したことを記録に残させて、経営者が見て管理できるようにする必要があるのに対し、日本の労働者は、自分がなすべきことを自分で判断し、常に技術の向上に励む特質を持っているからISO9001のような管理システムは不要だと考えていた。ただ、最近の若者を見ていると欧米の労働者に近づいたように感じるが、これは若者が悪いのではなく、日本の社会が、欧米風の考えに染まって労働者を使い捨ての道具とみなし始めた影響だと私は考えているが。
 では、この欧米と日本の労働者の違いは、いつごろから生じたのであろうか。これに関連することが、「第七章 自由と身分」に書いてある。
 アリス・ベーコンは、1888(明治21)年から翌年まで1年2ヶ月滞日したが、「Japanese Girls and Women」において次のように記述している。『・・・・家庭内のあらゆる使用人は、自分の目に正しいと映ることを、自分が最善と思うやり方で行う。命令にたんに盲従するのは、日本の召使にとって美徳とはみなされない。彼は自分の考えに従ってことを運ぶのでなければならぬ。もし主人の命令に納得がいかないならば、その命令は実行されない。日本での家政はつましいアメリカの主婦にとってしばしば絶望の種となる。というのは彼女は自分の国では、自分が所帯の仕事のあらゆる細部まで支配するかしらであって、使用人には手を使う機械的労働だけしか与えないという状態に慣れているからだ。彼女はまず、彼女の東洋の使用人に、彼女が故国でし慣れているやり方で、こんな風にするのですよと教えようとする。だが使用人が彼女の教えたとおりにする見こみは百にひとつしかない。ほかの九十九の場合、彼は期待どおりの結果はなし遂げるけれど、そのやりかたはアメリカの主婦が慣れているのとはまったく異なっている。・・・・・使用人は自分のすることに責任をもとうとしており、たんに手だけではなく意志と知力によって彼女に仕えようとしているのだと悟ったとき、彼女はやがて、彼女自身と彼女の利害を保護し思慮深く見まもろうとする彼らに、自分をゆだねようという気になる。・・・・・・』
 豊臣秀吉が織田信長の草履取りであった頃、信長の草履を懐で暖めたという話が、本当か、否か知らないが、この話も使用人が意志と知力によって主人に仕えることを示しており、日本人のこの特性は相当昔からのものであろう。そうなった理由は、日本の身分制の緩さに関係しているのかもしれない。 

 カンブリア宮殿を見ていたら東海バネ工業株式会社の社長が、「標準化、マニュアル化とか、そんな事ばかりしていたら、物づくりは東南アジアやそのうち、アフリカに行ってしまう。」というようなことを言っていた。そもそもISOを主導しているのは、イギリスである。世界を植民地化して、現地のレベルの低い労働者を使って利益を上げるにはマニュアル化や標準化が必要だったのであろう。そして彼等は、労働者を意思の無い機械とみなして実績を上げてきた。こういう生き方を否定する会社が存在するのは本当に日本にとって救いだと思う。

【第八章 裸体と性】
 話が堅くなりすぎたのでちょっとざっくばらんに。
 厳格な一夫一婦制を前提とするキリスト教を信奉する欧米人から見たら日本人の性と裸体に関する大らかさは、堕落以外の何ものでもなかった。どんな状態だったのか。
 ヴェルナーは、『公衆浴場で「男、女、主婦、老人、若い娘、青少年が混浴するが、だれも当惑した様子がな」く、「主婦は三助に奉仕され体を洗ってもらうが、そのさい彼女たちは海水パンツをはいているわけでもバスローブをまとっているわけでもない」・・・・・「教育があり上品でもある」日本人に、どうしてこういう羞恥心の欠如がみられるのか、羞恥とは気候によって左右される概念なのだ。・・・・・・・「ニグロ、インディアン、マレー人については」、その裸体を別に不思議がりはしないわれわれが、日本人の裸体姿からショックを受けるのは、日本人が「精神と肉体の両面でわれわれに近く」「交際する形式からしてもいかにもヨーロッパ風であり、一般に洗練され、折り目正しい態度」をとるからだ。・・・・・』 日本人が裸をなんとも思っていなかったことを示す行為として風呂から素っ裸で道路に飛び出して外人を眺める様子が記録されている。
 『ポンペが記しているように「男も女も素裸になったまま浴場から街路に出て、近いところならばそのまま自宅へ帰る」・・・・・カッテンディーケは書いている。「・・・・我々が風呂屋の傍らを通ることがあれば、彼らはその風呂から飛び出し、戸口に立って眺めている。」』 ホジソンは、江戸での経験として、『「男女の入浴者が入り乱れて、二十軒ばかりの公衆の小屋から、われわれが通り過ぎるのを見物するために飛び出してきた。皆がみな何一つ隠さず、われわれの最初の両親(アダムとイブ)が放逐される前の、生まれたままの姿であった。こんなに度肝を抜かれたことはなかった。」』 この状況は明治になっても変わっていなかった。明治11年に秋田県でバードが出会った光景。『「私が二本の足で歩いていると、人びとは私を見ようとして風呂からとび出してきた。男も女もひとしく、一糸も体にまとっていなかった」』
 日本人が裸に対する観念が寛容なら性の表現についても寛容であった。
 ヴェルナーは、『「・・・・絵画、彫刻で示される猥褻な品物が、玩具としてどこの店にも堂々とかざられている。これらの品物を父は娘に、母は息子に、そして兄は妹に買ってゆく。十歳の子どもでもすでに、ヨーロッパでは老貴婦人がほとんど知らないような性愛のすべての秘密となじみになっている」。・・・・・・トロイ遺跡の発掘で名高いシュリーマンは1865(慶応元)年、ひと月ばかり横浜、江戸に滞在したが、大半は先行文献の無断借用からなるその旅行記に、「あらゆる年齢の女たちが淫らな絵を見て大いに楽しんでいる」と記している。ティリーも長崎で同様の光景を目にしたらしい。「猥褻な絵本や版画はありふれている。若い女が当然のことのように、また何の嫌悪すべきこともないかのように、そういったものを買い求めるのは、ごくふつうの出来ごとである」。ペリー艦隊に随行した中国人羅森も、下田での見聞として「女が春画をみていても怪しまれない」と書いている。』

 では、日本には貞操観念という概念はなかったのか。また、公娼制度についてはどうだったのか。
 『パンペリーにとっては、「日本は矛盾に充ちた国」だった。なぜなら「婦女子の貞操観念が、他のどの国よりも高く、西欧のいくつかの国々より高い水準にあることは、かなり確かである」のに、「自分達の娘を公娼宿に売る親たちを見かけるし、それはかなりの範囲にわたっている」からである。しかし彼は同時に、このいとうべき公娼制度が「他の国々では欠けている和らいだ境遇を生み出す」ことも認めないではいられなかった。「犠牲者はいつも下層階級出身で、貧困のために売られる」のだが、「彼女たちは自分たちの身の上に何の責任もないので、西欧の不幸な女たちをどん底に引きずり込む汚辱が彼女たちにつきまとうことはない。これとは逆に、彼女たちは幼少時に年季を限って売られ、宿の主人は彼女たちに家庭教育の万般を教えるように義務づけられているため、彼女たちはしばしば自分たちの出身階級に嫁入りする」』
 公娼宿に売られた娘は、当人には何の罪もないので年季が明ければ普通に結婚したというのである。落語の「紺屋高尾」でも大工の弟子が高尾太夫に惚れて結婚する話があるが、昔の日本には、貧しくて娘を売る風習があっても、娘に罪はないことを認め、受け入れる寛容さがあったのであろう
 但し、この公娼制度による梅毒蔓延の問題もあった。
 『・・・・・・ウィリスは1862年、英国公使館の医官として日本に赴任した人物だが、67(慶応三)年に英国外務省に提出した報告書で次のように述べている。遊女は一般に二十五歳になると解放されるが、たいてい妓楼主から借金を負うはめに陥り、本来の契約期間より長く務める場合が多い。彼女らの三分の一は、奉公の期限が切れぬうちに、梅毒その他の病気で死亡する。江戸では遊女の約一割が梅毒にかかっていると見られるが、横浜ではその二倍の割合である。梅毒は田舎ではまれだが、都市では三十歳の男の三分の一がそれに冒されている。』 

【第十章 子どもの楽園】
 日本の子どもは、昔から非常に大切にされ、生き生きと育てられてきた。この子どもたちが十歳を過ぎた頃から大切な場では威厳を保つような大人と変わらない態度を示すようになる。この秘密はどこにあるのか。
 『・・・・ブスケにも日本の「子供たちは、他のどこでより甘やかされ、おもねられている」ように見えた。モースは言う。「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい」。・・・・・』
 『日本人が子どもを叱ったり罰したりしないというのは実は、少なくとも十六世紀以来のことであったらしい。十六世紀末から十七世紀初頭にかけて、主として長崎に住んでいたイスパニア商人アビラ・ヒロンはこう述べている。「子供は非常に美しくて可愛く、六、七歳で道理をわきまえるほどすぐれた理解をもっている。しかしその良い子供でも、それを父や母に感謝する必要はない。なぜなら父母は子供を罰したり、教育したりしないからである。」。日本人は刀で人の首をはねるのは何とも思わないのに、「子供たちを罰することは残酷だという」。かのフロイスも言う。「われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ言葉によって譴責するだけである」。』
 日本人は子どもをどこへでも連れて行った。それが自然の教育ではなかったのだろうか。
 『ウェンディとマイケルは、両親がパーティに出かけて二人で留守番をしている夜に、ピーター・パンの初めての訪問を受け、ネバーランドへの冒険に出かけた。日本の子どもには、そんな空想物語は不必要だった。なぜなら、子どもは大人といっしょにどこへでも出かけたからである。オールコックは大阪の芝居小屋でそういう光景を見て仰天した。というのは、上演されている劇は淫猥きわまるもので、とても子ども連れで観るようなものではなかったのである。前述したように、子どもは春画や春本、その他性的な玩具類から隔離されていなかった。』
 日本の子どもは甘やかされて育てられるから、精神的な成長も遅かったのだろうか?いや違うのである。
 『ヴェルナーは「十歳から十二歳位の子どもでも、まるで成人した大人のように賢明かつ落ち着いた態度をとる」という。これは幕末の観察である。幕末から明治二十年代にかけて、日本の子どもの大人並みの自己保持能力はこのように欧米人観察者をおどろかしたのだが、彼らのおどろきはルソー以来の「子どもの発見」、すなわち、純真な子どもらしさという近代的強迫観念にもとづいていた。日本の古き文明には、童心とか無邪気な子どもらしさといった観念は存在しなかった。誰しも認めたように、日本の子どもは無邪気で愛らしい、子どもらしい子どもだった。オールコックのいう通り、大人ぶった気どりは彼らの知らぬ感情だった。しかしそのことは、いったん必要とあれば、大人顔負けの威厳と落着きを示すことを何ら妨げなかったのである。なんとなれば彼らは、不断に大人に立ち交じって、大人たちの振舞いから、こういうときはこうするのだと学んでいたからである。』

【第十一章 風景とコスモス】
 昔の日本の風景は素晴らしく美しかったらしい。私は3歳まで島根にいたが、その風景は今でも記憶に残っており、その生活と風景は私の原点だと考えている。その当時の日本の風景とはどういうものだったのか。
 『彼らの多くはまず長崎に寄港したが、その美しさは直ぐに彼らの間で語り草になった。プロシャの輸送艦エルベの艦長としてこの港に入ったとき、ヴェルナーは、「すでに港の美しさについて多くのことを聞いていた」。しかし「期待は現実によって全く凌駕された」。リオ・デ・ジャネイロ、リスボン、コンスタンチノープルは世界の三大美港とされているが、「長崎の港口はこれら三港のすべてにまさっている」というのが彼の実感だった。ポンペは1857(安政四)年初めて長崎湾の風景を見たときのことを、「乗組員一同は眼前に展開する景観に、こんなにも美しい自然があるものかと見とれてうっとりしたほどであった。」と記している。彼はオランダ海軍の教育隊員としてこの地で任務につかねばならないのだったが、「本当にここで二、三年生活することになっても悔いるところはない」と感じた。』
 また自然と調和した日本人の生き方についても彼らは記している。
 『「日本人は何と自然を熱愛しているのだろう。何と自然の美を利用することをよく知っているのだろう。安楽で静かで幸福な生活、大それた欲望を持たず、競争もせず、穏やかな感覚と慎しやかな物質的満足感に満ちた生活を何と上手に組み立てることを知っているのだろう」という感嘆はギメだけのものではなかった。・・・・・・・「わたしは、日本人以上に自然の美について敏感な国民を知らない。田舎ではちょっと眺めの美しいところがあればどこでも、または、美しい木が一本あって気持ちのよい木蔭のかくれ家が旅人を休息に誘うかに見えるところがあればそんなところにも、あるいは、草原を横切ってほとんど消えたような小径の途中にさえも、茶屋が一軒ある」。』
 イギリスでは、貴族階級の趣味であった園芸が、日本では庶民も行っていたことは有名な話である。
 『神奈川宿近くの農村について、フォーチュンは書いている。「馬に乗って進んでゆくと、住み心地のよさそうな小さな郊外住宅や農家や小屋を通りすぎるが、それには小さな前庭がついていて、その地方で好まれる花々が二、三種類植えこんである。日本人の性格の注目すべき特徴は、もっとも下層の階級にいたるまで、万人が生まれつき花を愛し、二、三の気に入った植物を育てるのに、気晴らしと純粋なよろこびの源泉を見出していることだ。仮にこのことが一国民の文明の高さのしるしだとするならば、日本の下層階級はわが国の同じ階級とくらべるとき、大変有利な評価を受けることになる」。バードも奈良を訪れるべく、京都の南郊を通ったときのことをこう述べている。「私たちは伏見に着くまで、七マイルほど続く町々を通り抜けた。その大部分はもっとも貧しい階層の住居からなっていた。だがそれは悪徳やむさ苦しさのない勤勉な貧しさであって、粗末で狭く黒ずんだ住居のほとんどすべてが、寺院の庭師が羨望にかられるような盛り上がった大輪の菊を少なくとも一鉢は飾っていた」。』

 まだまだ紹介したいことは多いのですが、この辺で。

 明治以降日本の近代化が進んで本当に人は幸せになったのだろうか。物欲と競争ばかりで現代人は獣に堕したようにしか思えないのであるが。 

TOPページに戻る